写真の上-金汝翼が最初に海苔養殖に成功したテインも前児島の姿
写真の下-山おかゆと木枝を利用した自然胞子方式の伝統海苔養殖
李垠澈と共にする光陽歴史正しく知る22
朝鮮時代6
事実を知り是非の判断の先駆者,金汝翼海苔養殖に成功する
テ・インドには全羅南道記念物第113号と指定された‘光陽海苔始殖址’がある。 1700年代初期光陽県監を過ごしたホ・シムが使った金汝翼(キム・ヨイク)(1606〜1660)碑文の‘始殖海衣’-現在雨は消えて-という記録が金海金氏家系図に伝えられていてこの事実を後押ししている。
また子孫らの間に伝えられる伝説によれば,テ・インドは風水的にタコ局面に該当する。金汝翼は1606年霊岩郡, 鶴山面で金氏の次男に生まれた。丙子胡乱(1636)が起きるや義兵を導いてソウルに上がって清州に達した時,すでに王が清国に降参したという消息を聞いて故郷に戻った彼は,ご先祖を見る顔がないとし,故郷を離れて,宝城で3年を過ごした。光陽のテイン度が隠れて買うのに値するという話を聞いて35才なった1640年にテイン道路入ってきた。一日は彼が島の前の海に出て行ったのに海辺に押されてきた栗の木枝に海草がついていてこれをはがして味わうとやわらかくて甘みが出るので持ってきて,漁夫らに尋ねた。漁夫らは石について,スッポンは‘海衣’同じだと話した。翌年秋栗の木と松,竹などの枝を切って村の前児島周辺の干潟にさしておいて観察した。予想したように木の枝に海衣がついて育った。金汝翼は海衣を育てることだけで満足しないで海衣を乾燥する方法を研究した。つく構成して作った早打ちの頭の上に海衣を等しく咲いて止めた後に引き離す乾燥方法まで開発して,人々に普及した。テインも人々は先を争って,これを養殖してその製品を河東,江西に持ち出し売った。河東の人々はテインも‘金氏’が作ったものと‘海苔’(なまりで‘荷物’)だと呼んだし,これが海苔の語源になったという。
この伝説を通じて,私たちは朝鮮末期の光陽社会と人々の生活像をのぞくことができる。
金汝翼は事実を知り是非の判断の精神が透徹した人物だった。 海辺に押されてきた木の枝に海衣がついて育つのをなにげなく行き過ぎでなくて,人工養殖の可能性を発見したのだ。 またこれを実験を通じて,証明して,乾燥方法まで開発して,商品化するのに成功した。
海苔でイクにとって性理学という観念哲学で脱皮して,実生活に適用されることができる知識開発に関心を持つようにさせた背景は彼の社会的身分の変化であると推定される。金汝翼は没落貴族であることが明らかだ。まず彼の家が長い間過去合格者を輩出できなかったし,倭乱とホという(のは)以後急激な身分制変動により貴族身分を維持するのが難しかったことから見える。結局故郷を離れて,朝鮮時代最高の辺境といえるテイン道路来た彼は,性理学の拘束から抜け出して,実学に関心を持ったようだ。
テインも人々が‘海苔’を河東,江西に持ち出し売っているのを通じて,朝鮮末期地方江西の活性化を見られる。今でも一部地方で五日葬が開かれるのに,18世紀にはこういう江西が全国に1千ヶ所を越えた。光陽管内には町長(1日と6日開始),玉谷長(4日と9日),島巨匠(3日と8日),月包装(5日と10日)等4ヶの5日葬江西があった。これら江西で米,綿布,塩などの品目と一緒に‘海苔’と同じ商品作物らが流通していた。封建的な自給自足的経済段階で資本主義的な交換経済の段階に移る変化が現れているのだ。
海苔始殖址を置いて光陽と莞島が論争中だ。しかし重要なのはある地域が先に海苔養殖を始めたかということよりは没落した貴族金汝翼が事実を知り是非の判断の精神で海苔養殖に成功して‘海苔’を商品化したし,これを江西を通じて,活発に,流通させているという点に注目しなければならない。朝鮮の辺境,光陽のテ・インドで近代史会という新しい社会での履行が‘ひそかに’起きていたのだ。
(光陽第一新聞12月22日)
http://www.gwangcheol.hs.kr/g4/bbs/board.php?bo_table=history&wr_id=71&page=1
numlk01@なるほどね ver.2008.03.25
numlk01|03-25 12:05
http://www.gwangyang.go.kr/site/Home/culturetour/sub01/a3/a3_a8/ http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfood&nid=36024
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