光陽海苔始殖址
指定番号:全羅南道記念物第113号
所有者:理由
所在地:光陽市テ・インドン829-1
規模:試食の場所一員
指定年月日:1987年6月2日
『信証東国輿地勝覧』には‘海衣’という名称で記録されているが別名「海苔」だと呼んだりもする。 46ヶ村の土産品で初めて記録が出てくるのに全南地方では光栄長興羅州霊岩進度強震海南順
チョ:ン・ボソン高興光陽など11ヶ村ですでに海衣が生産された。
今日私たちが‘海苔(キム)’と呼ぶ生え抜き言葉の代わり‘海苔’と書いた最初の記録は順調17年(1817)強震島流し先で丁若鏞の『経世遺表』に“海苔はカムグァクまたは甘苔ともするのに苔には色々な種類があって,そのうち紫笞というものがある。 姿を俗称海衣といってなまりで朕という”という記録だ。
1910年朝鮮総督府が編纂した『朝鮮水産誌』には光陽の物産で米綿花鉄器塩海苔など五種類を持って,その中海苔が最も重要な物産であり,国内程度と記録している。 このように光陽では海苔が性行った。
‘海苔’の始殖に対しては莞島助薬島のキミュモン,莞島,古今面用掌理定時院(朝鮮漁業組合ゆりかご,1942)等の始殖説と光陽の金汝翼(1606 1660年)始殖説などがある。
キム・ヨイク(金汝翼)は霊岩,鶴山面モンヘで生まれて,人造14年(1636)丙子胡乱が起きるや義兵を起こして,従兄キム・ヨジュン捜査について清州に達したが,降参するや戻った後,故郷を離れて,長興椿洞を経て,人造18年(1640)テイン道路入って,カモメとともに生きながら海衣を試食するなど冥利を離れて生きた。 このような事情は粛宗40年(1714)当時光陽県監だった虚心(1713.4 1714.9在任)が作ったという金汝翼の墓標に記されている。 この墓標は残っていないが金海金氏家系図に残っている。
子孫らは‘海苔’を‘海苔’とすることは私たちの先祖金汝翼おじいさんがテ・インドで海衣養殖法を創案したのに河東長ではテインもキム街が育てたという意で‘海苔’としたという。
今日テ・インドに残っている在来式海苔様式は‘日本ホン’というもので山竹やサビ乗って,葦などをモレポルにさす方式で莞島の在来式海苔様式は王台を側ひいては足を作った後,ちょっと深いケッポルにさすヨム・ホン方式などがある
http://new.gwangyang.go.kr:8080/data/korean/01intro/citypaper/book3/8_5_1.pdf
http://209.85.175.104/search?q=cache:8_5RO58Y2a0J:new.gwangyang.go.kr:8080/data/korean/01intro/citypaper/book3/8_5_1.pdf
numlk01@なるほどね×2 ver.2008.03.25
numlk01|03-25 12:57
結局、金汝翼の墓標自体は残っておらず、碑文に‘始殖海衣’と書いてあったとの記述が家系図に残されているだけである。
→ numlk01|03-25 12:59
つまり、半世紀後に書かれた伝記の類で、その碑文自体も残っておらず、家系図に書いてあるだけという話。残りは全部伝承の類。
copy_saru000|03-25 14:40
キリスト,金,黄金,半導体の起源は日本です. 笑い物.ww
xiaoke|03-25 15:17
半世紀後の伝記が初出ですか…
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